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2014年5月26日 (月)

崩壊の序曲・・・?

集団的自衛権をめぐり、公明党は「集団的自衛権の部分的容認も、現在の憲法解釈では容認できない」ようなことを言ってうやむやに言い逃れをしているが、その根底には、創価の存在理由の一つ、「世界平和」的な思いなんぞかけらもないんだろう。

どうせいつものごとく、最終的には自民党の言いなりになるに決まっているんだから。

プライドも信念も、何もないし・・・。

ただ、創価学会の裏のアクドイ部分が公になるのを防ぐのが目的の公明党なんだし。

それ以前に、そもそも創価学会は世界平和を願う団体でも宗教でもないのだが(笑)。


それはともかく、先日、5月17日に、創価学会は集団的自衛権をめぐる問題に対して、異例の見解を発表した。

創価学会広報室の見解全文は以下の通り。

『私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法
第9条についての政府見解を支持しております。したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきであると思っております。集団的自衛権の問題に関しては、今後の協議を見守っておりますが、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます。』



正直、テレビで見たときにはかなり驚いた。

何しろ、学会員として裏で選挙活動は堂々としていたが(あくまでも表向きは友好活動w)、創価学会自体がマスコミに対してこのような政治的問題に関しての発言を行ったのを見たことがないからだ。

それよりも何よりも驚いたのは、こんなに重大な見解が創価学会から公に発表されたのに、聖教新聞には一切この話題に触れていないことだ・・・・!

テレビでも大々的に取り上げられ、どの局、どのニュース番組でも報じられていたのだから、活動で忙しい学会員といえども、この発表を全く知らない人は少ないと思う。

むしろ、日頃から疑問を抱いている活動家の方々は、かなり心の中の疑問符が大きくなったはずだ。

テレビで堂々と「創価学会」の名前が出され、広報室より「創価学会としての見解」が発表された。

それなのに、聖教新聞ではこの話題に全く触れない・・・。

普通の感覚の持ち主ならば、創価内外問わず、この事実に疑問が湧くのが普通だろう。



どういう意図で、誰が、このようなことをしたのか・・・。

本当に、「創価学会広報室」から発表されたのか。。。

政教分離の原則から、創価学会は表向きは政治と関わってない風を装っていたのに、なぜ今、突然マスコミに発表・・・?




学会員といえども、幹部といえども、いろんな考えの人がいることをアンチサイトで知った。

政治問題に関しての個人的な考えはひとそれぞれで、皆が皆、「公明党大好き!大賛成!!」ではない。

それがあたりまえだ。

個人の自由は権利だ。

民主主義国家ならあたりまえだ。

それなのに、創価の中にいると「自分はこう思っているのに・・・」という個人的な思いは封印して、「公明党が正しい」「公明党に任せておけば大丈夫」と、根拠のない思い込みを自分にも部員さんにも無理強いし、そこにもなぜか「池田センセイに対する恩返し」「池田センセイに勝ったと報告したい」と、池田崇拝も織り交ぜて自分を徹底して封じ込める。

「でも・・・・」と自分の意見を言おうとすれば、幹部に言いくるめられる。


そもそも、このような「創価学会イコール何が何でも公明党支援」の図式は、民主主義に反している。


私は中学生のころから政治に関心があり、学校で教わり、世の中の仕組みが見え始めたときから、創価学会に疑問を持ち始めていた。

「なぜ、学会だからといって、全員が公明党を応援しなければいけないのか?投票する権利、一人一票は自由なんじゃないのか?」

これはオカシイ・・・と、中学生の頃から薄々感じていた。

おまけに、親が学会員だからといって、自分も生まれてすぐに学会に入れられ、会合参加を強制され、学会以外は邪宗だといってボロクソにけなす。


なんか違和感・・・でも、親も周りの大人もそう言うんだから、信じなきゃいけなかった。


ちょうど学会が宗門から破門されたとき、私は高校一年生(か中学三年生?)だったと思う。

それまでは大石寺を「お山」と呼び、年に一度の登山(要するに本山にお参り)を宗教上の一番大事なこととしていたのに、ある日突然、「日顕憎し!」「打倒日顕!」「日顕撲滅!」と、手のひらを反して攻撃し始めた。

私はそのころ、周りで何が起こっているのかよくわからなかった。

けれども、「日顕撲滅」と書いたご記念盤?を教机の上に置き、「打倒」「撲滅」「悪を倒す」などとひたすら日顕氏を攻撃する内容を祈らされていることに、非常に不信感を抱いた。


「確か、どんな人でも仏性が備わってるんでしょ?日顕さんにもあるんじゃないの?」

「人の不幸以外は何でも祈っていいんだよね?なのに、日顕撲滅って、祈っていいの??それって人の不幸じゃない??日顕さんは人間じゃないの??」


と、わけが分からなかった。

いきなり呪いの祈りが始まり、「日顕撲滅唱題会」と題した呪いの唱題会も定期的に行われていたことに、非常に不安と不信と嫌悪感を覚えていた。

さんざんテレビでもこの創価学会破門のことが取り上げられていたのは記憶しているが、確か両親は「くだらない!」と言い、テレビを見せてくれなかった。


高校生になり、学べば学ぶほど「私の意見」というものが出来上がってきた。

そして創価学会に対して、ますます疑問が湧いてきた。

創価学会の行動は、どう見ても憲法の内容に当てはまっていない。オカシくない・・・???

その疑問をストレートに親にぶつけてみたが、「くだらない!何言ってんの!?」で終わってしまった。

完全に、外部にカルト性を指摘されたときに見せる顔そのもの、といった感じの表情を見せて・・・。

私が納得するような根拠も何も提示してくれないまま、ただひたすら私がバカだと言いたげに・・・。

「ひたすら学会は正しいと思っていればいい。何も考えるな。どうせ学会が正しいんだから。」という勝手な親の思い込みで有無も言わさずねじ伏せられた。


女子部になってからも、まだ10代で選挙権がなかったころに、ある選挙のとき女子部の先輩に「なぜ公明党に入れなければいけないのか?私はもし今選挙権があったなら、今の公明党には賛成できないから入れません!」と、食ってかかったことがある。

そのときに何を言われたかは忘れてしまったが、とにかくこの手の常識的な思考で問いかけても、ただの一度も、誰からも、納得のいく答えなど返ってきたことがなかった・・・。

だからこそ、今こうして創価学会から離脱できたのかもしれないが・・・。




だいぶ話がそれてしまったが、私自身、勉強がまだまだ足りなくて、この集団的自衛権の問題、原発の再稼働問題、経済、年金、その他多くのことについて、世界では何が起きているのか、少しずつ知識を増やしている最中だ。


何かしらの問題について、自分としての考えを持つときに、「はたしてそれは本当なのか。逆の意見はどうなのか。なぜ逆の意見があるのか。本当は何があったのか。客観的事実は?根拠は?」と、常に自分に問いかけることを意識していきたいと思う。

このことが、私が創価学会という特異な環境で育ってしまったことから唯一学んだことかもしれない。

感情に流されると、真実が見えなくなる。

そういう意味では、今でも創価の悪事に対しては感情が高ぶり、何かを見失いそうになるときもある。

けれども、それは当たり前のこととして、そのことをも認識しつつ、あくまでもフラットな状態で頭を働かせたいと思っている。


今やネットが世の中に普及し、真実が暴露され、アンチサイトや個人のブログでは、現役学会員たちの嘆きが赤裸々に語られている。そんな時代になった。

現役活動家の創価離れが急速に進む中、この現状を創価上層部が知らないはずはないだろう。

だからこそ、内部からXデーを起こそうという動きなのか・・・?と期待してしまうのは、私だけだろうか・・・?



池田大作の私欲のために巨大化しすぎた創価モンスターを倒すのは、そうとう困難なことだと思う。

学会員はありとあらゆる業界、職種に存在する。

今や司法、行政、警察、ありとあらゆる国家権力と繋がりがある。

だから、現役内部から自然崩壊してくるのを待ち、「ここぞ!」というときにとどめを刺す。

そんな絶好の機会を誰かが狙っている・・・?

創価の真実を知っている誰かが、じわじわと創価を崩壊させようとしている?

疑問をもっている創価の活動家たちを覚醒させ、離れさせるために。

そんなソワソワした雰囲気を感じているのは、私だけ?私の誇大妄想・・・?

世間一般の創価学会と関わりのない人たちにも、「政治と創価学会」という形で情報を提供すれば、関心を持たれやすく、創価学会と公明党の関係の現実、憲法違反の実情などに関心が集まると思う。

創価学会が宗門から破門されたときのように、センセーショナルにマスコミに創価問題が取り上げられる日がくることを待ち望んでいるのは、私だけではないはずだ。

2014年5月19日 (月)

例のアノ人。。。

池田大作(“氏”すらつけたくないこのごろ)が世間に姿を見せなくなってから、4年が経過したそうだ。

そういえば、私が最後に本幹同中に行ったのはいつだっけ・・・?

結婚してから中途半端な活動家状態になっていたため、ほとんど本幹同中なんて行っていなかったが、たしか、最後の数回はもうすでに池田の姿はなかった。

よくわからない全国クラスの幹部が何かしゃべっていたなーくらいしか記憶にない。

そして、会場は人数も少なく閑散としていて、どこか冷めたような雰囲気を感じていた。

その頃は恥ずかしながら私も完全にMC頭だったから、その会場の雰囲気を見て「池田センセイが亡くなられたあとの学会って、こんな感じなのかしら・・・。寂しいワ(涙目)。。」などとほざいていたっけ・・・。

完全に覚醒した今となっては、創価学会なんて早く解散してしまえばいいのにと、心の底から思っている。



池田大作は現在、脳梗塞を患ったとか、痴呆でまともな生活ができないとか、もうすでにこの世にいないとか、世間ではいろいろと噂されているが、実際のところはどうなんだろう。

年齢も年齢だし、当然普通の人と同じように、病気にもなるしいつかは死ぬ。

「池田本仏論」を大々的に唱えはじめた狂信者も一部に出始めたそうだが、池田老人が死ぬ間際になってから御本仏として崇められるようになろうとは、創価もいよいよオカルト街道まっしぐらなのだろうか(笑)。

4年も会員の前に姿を見せていないのに、「センセイはお元気」などと本気で思っている学会員は、実際のところ本当にたくさんいるのだろうか・・・。

そう思わなければ、自分自身の中で創価を正当化できず、つじつまの合わない事態が生じるのが怖くて、強引にそう思い込まなきゃ・・・と無理しているのが本当のところではないだろうか。


私は完全非活を約四年経験し、その後今年の一月に正式に脱会した身だから、現在の末端組織の様子などは全くわからないが、過疎化・高齢化が進んでいることは間違いないはずだ。

特に、二世、三世は自発的に入信したわけでもないのに、親に勝手に学会員にさせられているのが耐え難く、どんどん脱会している。


日本国憲法でもハッキリと個人の人権の尊重、宗教の自由などが明言されているのに、学会内の親子関係においては、それらが完全に無視されている。




日本国憲法

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。







・・・私が中学生か高校生の頃、この日本国憲法を学校で学ぶうちに、自分としてはやっぱり学会は違うんじゃないかと思い始めていた。

あるとき、母に「学会がしていることは、憲法違反にあたらないのか」というようなことを言った覚えがある。
もちろん、私の言うことなんて初めからバカにされ、「くだらない」の一言で終わってしまったような覚えがあるが。


学会上層部のしてきたことに関しては、いずれ世間が明らかにしてくれるだろう。


だが、二世、三世たちの負わされた心の傷は、この責任は、一体誰が取るのか。


どうせ学会上層部は「各家庭の問題までは、我々の責任ではない」などと言い逃れるつもりなのだろう。

けれども、初代、二代会長はそもそも教育者だ。
子供と教育のプロじゃないのか?(もちろん、現在とは社会環境が全く違ってはいるが)

学会自身、池田大作自身(イヤ、ゴーストライターかもw)もさんざん「子供は未来の学会の宝」などとほざいてきたが、その未来の宝を傷つけるような、まともな人間に育てることもできないような家庭作りに仕向けてきたのは、他ならぬ創価学会という存在そのもの、そして「池田大作」という稀代の性悪カリスマなんじゃないか・・・と思うのだが。


池田大作が今現在、どのような状態になっていても、絶対に許されない罪をたくさん犯してきたのは事実だ。


池田がこの世から消えても、学会の内外で苦しんでいる多くの人たちの苦しみは消えない。


「敵は徹底的に追い込め!」「追撃の手をゆるめるな!」「悪とは戦え!」


・・・などなど、池田語録をあげれば山ほどあるが、そっくりそのまま、これらの言葉はセンセイに向けてお返ししますよ(笑)
あなたと創価上層部の悪事は、ことごとく世間に暴かれているのだから、今度はあなた方が「世間の敵」「社会悪」として追及される番じゃないですか?




ボケて死ぬのも構わないが、結局一番得をしたのは池田大作ただ一人だ。
創価学会という「小さな国」の絶対君主として君臨し続けた数十年、さぞかし気分がよかっただろう。
著名人との対話がまともにできるような頭脳もないし、ゴーストライターをかかえなきゃ「先生」という体裁を取り繕うこともできないような、まがい物の「センセイ」のくせに・・・。


この人には羞恥心というものがないのだろうか。。。


Xデーの暁には、恐るべき社会問題として、マスコミには大々的にこの創価問題をいろんな角度から取り上げてほしい、広く社会に訴えかけてほしいと思う。





・・・・まぁ、世間の人たちも、こんな創価ごときに関心を寄せるほどヒマじゃないって感じだろうな。。。

2014年5月14日 (水)

脱会者の視点

創価学会を脱会する理由は人それぞれだと思う。


私が創価の間違いに気が付き、マインドコントロール(MC)が解けるきっかけとなったのは、自分自身が子供の頃から抱えてきた心の問題を掘り下げてみたところからだった。

子供の頃からずっと創価に対して嫌悪感を感じ、矛盾を感じ、嫌で嫌でたまらなかったが、そのことを自分の意識にハッキリと上らせることができなかった。

それほど強力に精神の奥深くまでMCされていたのと、両親と自分との歪んだ親子関係がそうさせていたからだ。

子供のころから抱えてきた、心の奥深くに常に存在する得体の知れない不安感、恐怖感、さまざまな負の感情が私を36年間もの間、苦しめ続けてきた。

それらを紐解き始めたら、どうしてもその延長線上に「創価学会」の存在があることを、嫌でも認識しないわけにはいかなくなった。


「わたしは創価学会が大嫌いだ」


今までずっと子供のころからタブーとしてきた認識。

本当は自分でもわかっているけれど、それを認めてしまったら、私の存在意義がなくなってしまうという恐怖感・・・。

そのはざまで揺れ動き、押しつぶされそうな苦しみ。


「学会を離れたら、必ず不幸が起こる」

「学会を離れることは、親を裏切ること」


認めるのが怖かった。

ひたすら怖かった。

仏罰・宿業が怖かった。

両親から見捨てられるのが怖かった。


「本当の自分」を見失ったまま、気が付けば36年が過ぎていた。

カウンセリングを続けながら、ここ半年、静かに自分と向き合ってきた。

向き合う?


イヤ、そんな生易しいものではなかった。

つるはしやドリルを使って(時にはダイナマイトを使ったりして・・・)、歪んで作り上げてしまった自分をガンガン、ドカーンとぶっ壊し、一度粉々の木端微塵にした。

食事も睡眠も取れず、体重も5キロ以上減り、自分で言うのもなんだが痛々しい姿になってしまった(笑)。

そうして今、その瓦礫の山の中から少しずつ「本当の自分」のかけらを探している最中だ。



学会二世、三世たちには、私のような人が大勢いる。

生まれたときから創価学会の中で育てられ、唯一絶対正しい仏法だと教えられ、仏罰・宿業の恐怖で心を縛られ、たとえ本人がバリ活にならなくとも、子供のころから植え付けられた「恐怖心」「忠誠心」は絶対的なものになっている。

本人は意識していなくとも、心の奥深くに、このような感情が埋まっている人が多いはずだ。

個人のもともとの性格、気質はもちろん、生活環境や両親との関係なども複雑に関係しているが、「心が縛られる」感じは、学会二世、三世たちは強烈に感じている・・・。


創価学会のおかしさ、間違いに気が付く・・・というか、「創価の間違いを認める(認識する)」ということは、それまで築き上げてきた自分のアイデンティティーを否定する、壊すということにほかならない。

私は哲学者でも心理学者でもないが、「自分の生きてきた過程を否定する」のが、どれほどのショックと恐怖をもたらすのか・・・これはすでに体験済みだ・・・。


だから、創価の中で生きてきた時間が長ければ長いほど、「真実」から目をそらしたくなるのも理解できる。

目の前で泣いている子供よりも、お腹を空かせている家族よりも、悩み苦しんでいる家族よりも、学会活動を優先させてきた自分を否定するなんて、恐ろしいことだろう。

存在しない「福運」や「絶対的幸福」などという「絵に描いた餅」をひたすら追い求めていただけだ、と気が付いたら、本当に心が壊れてしまうだろう。



創価学会は、戦後の混乱期に乗じて、たまたまのし上がってきた新興宗教だ。

日蓮仏法の「現世利益」という概念が、戦後の混乱期を必至で生きている人たちの心のよりどころとして、一時的に受け入れられただけなのだろう。

現在の創価学会の真実の姿を知ろうと思えば、いくらでも知ることができる。

けれども、そうするためには学会員自らが気が付くしかない。


「創価学会はおかしい」と。


自分の心に正直に生きなければ、いつか破綻する。

心が壊れる。

真実は、自分で少しずつ調べて、知って、時間をかけて受け入れていくしかない。


真実を知れば、「・・・それでも学会にもいいところがあるから。。。」などと言っていられなくなる。

聖教新聞や民音の券などの地区ノルマ、財務や公布基金などとお金をやたらと搾り取られ、選挙の票集めをさせられ、労働力を無償で提供させられる。

じゃあ、数百万人から集めたお金の使い道は?

完全MC頭ではそんなことを考えたりしなかったが、池田大作の名誉称号を買い漁るためにも本当に使われていたのだ。

海外の大学や芸術団体のいわゆる「パトロン」として、池田個人の名前で多額の金を寄付し、その見返りとして「名誉称号」という形をもらっている。


以前、活動家のころ、「マスコミや世間は、池田先生に対する評価が気に入らなくて、嫉妬して名誉称号をお金で買ってるなんて言うのよ。そもそも、お金もらって名誉博士をあげる大学なんて存在するはずない、そんなこと言うのは、その大学に対する侮辱でもあるのよ!」

・・・なんて言っている幹部の言葉を鵜呑みにして、「そうだ!そうだ!」と思っていたが、皮肉にも、その幹部の言っていることが、本当に「真実」だったのだ・・・。

もう、創価学会の日々の活動から、本部幹部たちの言動、池田大作の傲慢さについてなどなど、書き出したらきりがなくなるのでやめておくが、本当に学会員はみんなお人よしすぎて、救いようがないくらいだ。


いわゆる「学会のいいところ」とは、結局、「人と人との温かい繋がり」だけしかない。

人間同士のつながりだけなら、別に創価でなくてもいいわけだし、「誰彼にお世話になった」というのも、その人の人間性に魅力があるわけで、創価とは無関係だ。

そもそも、人間がたくさん集まるところには、自分にとって好きな人や苦手な人、気の合う人や合わない人、いろんな人間がいてあたりまえで、たまたま「創価学会」という集まりの中で人間同士の繋がりができた、ということだけなんじゃないか・・・と思う。

組織の中の個人的な人間同士の関わりと、創価学会という団体自体、存在自体を混同してはいけない。

どこからどう見ても、どのような言い訳をしても、現在の「創価学会」という団体は、犯罪まがいのことをやり、人権を侵害し、法に触れない(今のところは)ギリギリの状態を保っているだけだ。

創価学会は戦後の混乱期を乗り切るための希望(的な独特の思想)と、人間のつながりを提供してくれたかもしれないが、現在は、その存在意義をすでに失っていると思うのだ。


・・・創価学会に存在意義なんて、大それたものがあるとすればの話だが・・・(笑)。

2014年4月30日 (水)

創価の歴史を紐解きはじめる

前回も少し触れたが、創価学会はなぜ現在のような巨大組織にまで発展できたのか。

それは、創価学会が発足した当時の時代背景を含めて外側から考えてみる必要がある。


その前に、一つ疑問に思ったのだが、あらためて創価学会のホームページを見てみたのだが、牧口常三郎氏が「創価学会の初代会長」に名前を挙げられてはいるが、実際には「創価教育学会」を立ち上げたのであって、「創価学会」を立ち上げたのは、戸田城聖氏だ。

もっとも、そんなことはわかっているが、戸田氏は牧口氏に敬意を表してあえて自ら二代と名乗ったのかもしれないが・・・。

なにしろ、今までずっと創価の活動家のバイブルであった、「小説 人間革命」が、池田氏直筆だと思い込んでいたら、実際には篠原善太郎氏というゴーストライターが書いたものであった、という事実から考えても、創価の上層部が言っていることはどこまでが真実なのか、かなり怪しいのだ。

今までさんざん、「小説 人間革命」は学会の正しい歴史書だ、とかなんとか言われ続け、人間革命を読破して学べだのと言われてきたが、真実の蓋を開けたらゴーストライターかよ・・・なんて結末が待っていようとは、夢にも思わなかったが(笑)。

こんな体たらくだから、創価学会の歴史なるものも、真実は何%で、どこまで歪められているのかは本当にわからないのだ。



まぁ、それはともかく、仮に学会のホームページに書いてある初代・二代会長の紹介文が正しいものとするならば、私の印象では、牧口氏は本当に立派な「教育者」だったのだと思う。

日蓮正宗に帰依してはいるものの、おそらく牧口氏のベースは教育者なので、あくまでも「教育者」として生き抜いた人物だったのではないか、と、そんな気がする。

二代会長の戸田氏もやはり「教育者」だったが、牧口氏という「人物」に惚れ込んでしまったのだろう。(あくまでも想像だが・・・)

やはりホームページが事実なら、戸田氏も優れた「教育者」だったのだろうが、牧口氏の獄死を通して、より師弟感情に火が付いてしまったのではないか・・・


それも、「教育」の分野ではなく「宗教」という部分の火が・・・


私の誇大妄想なのかもしれないが・・・。


どの程度まで牧口氏、戸田氏の師弟関係が深かったのか、何を目的とした師弟関係だったのか、そこは本人たちでなければわからないし、本当に二人が日蓮仏法を世に広めるのが自分たちの使命だと思っていたのか、今となってはそのあたりの真実は誰にもわからない。

牧口氏は日蓮仏法に「宗教」としての救いや哲学を何かしら見出したのかもしれないが、いわゆる「広宣流布」という大それた目標を掲げていたのだろうか・・・。


私の持論だが、自分にとっての偉大な「師匠」を獄中で失ったというショッキングな出来事が、戸田氏の「感情」を大きく動かしてしまったのではないか、と思うのだ。


前回の記事でも書いたが、ヒトラーが用いていたプロパガンダの手法は、とにかく相手の「感情」に訴えることが重要とされていたが、創価学会の歴史(小説 人間革命をベースにして)を振り返るならば、とにかく「理論」よりも「感動的な体験、出来事」などを織り交ぜたものが多く、思わず心が揺さぶられる、感動で胸がいっぱいになる、といったような内容が多く、それが真実かどうかはわからないものが多かったように思う。

というより、「それが真実かどうか」よりも「それが感動的かどうか」の方が優先順位が高いため、創価のネガティブな部分を知っても、勝手に脳の回路が遮断されてしまうのだから、まぁ、真実なんて活動家にとってはどうでもいいのだろうけど・・・。




私は今頃になって、自分の不勉強さを恥じている。

常識のなさを恥じている。

歴史の大切さを今頃になって、痛切に感じている。

思えば、この広い世界の中で一応は自由に行動できる場所で生きていながら、この広い世界のことを何も知らなかった。

というより、興味を持つ範囲が限りなく狭かった。

自分は日本の江戸時代以降の近代史に興味があるくせに、実際に持っている知識は学校で教わったこと、「小説 人間革命」の中に書いてあること、それにテレビなどで少しばかり聞きかじったことだけしかないのだ。


本当に、本当に、私は何も知らなさすぎる。

恥ずかしすぎて、身の置き所がないくらいだ。

人間革命の中に書かれていた戦後の日本における大事件に関しては、さすがに限りなく事実に近いのだとは思うが(嘘を書いても何のメリットもないし)、もっと別の角度から、創価以外の本から、もっともっと知らなければいけないことがたくさんある(当たり前すぎる!)。


いろんな角度から、いろんな立場から、「その時何があったのか」を知らなければ、本当に「知っている」ことにはならない。


そこで最近、体調の良いときに少しずつ歴史と宗教関連の本を読み始めた。

やはり、創価以外の客観的な立場から「創価学会」というものをながめてみなければ、その本質は見えてこないのだと思う。

このように思えるようになったのも、つい最近のことなのだが。

戸田氏が「創価学会」を立ち上げた戦争直後の日本とは、どういう状況だったのか、そのあたりを知らないと、創価学会というモンスターの正体はつかめそうにないような気がする。

2014年4月28日 (月)

創価学会とプロパガンダ

カウンセリングがなかなかいい感じで進んでおり、ようやく「両親」と「私」という関係を切り離した視点から観察できるようになってきた今日このごろ。

前回までの記事を読み返してみると、そうとう苦しんでたんだな・・・私・・・という感じだ。

今現在は、心に波風が起こって情緒不安定になることがだいぶ少なくなってきた。

母親とか、父親とか、とりあえずはもうどうでもいいや・・・という感じだろうか。

そのあたりの心の変化は、また後日あらためて整理してみよう。




それよりも、つい最近、あることに非常に衝撃をうけた。

今更なのだが、創価学会の中で日常的に誰もが使っている『活動家』という言葉について、学会以外の視点からあらためてこの言葉の意味について考えさせられたことがあった。

それは、私がいつも愛読しているとあるアンチ創価ブログのコメントに、創価のプロパガンダとナチスの用いていたプロパガンダの手法などの共通点、および宗教団体にもかかわらず「信者」ではなく「活動家」という言葉を用いていることへの指摘があった。

恥ずかしながら、プロパガンダという言葉を知ったのも実は割と最近で、しかもこちらのブログの記事で初めて知った言葉だった。

プロパガンダとは、Wikipediaによると、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った、宣伝行為である」と冒頭に書いてある。

この社会の中で生活していくためには、当然プロパガンダと無縁の生活はできないわけだし(なぜなら、あらゆるプロパガンダが存在し、それら無くしては我々の生活、経済活動も存在しないことになるからだ。プロパガンダはあらゆる分野、領域においても使われ、常に我々の生活と密接な関係にあるからだ。詳しくはWikipedia参照。)、そもそも、戦争においては、国民の意識をまとめ上げるために、様々なプロパガンダの手法が用いられていたことは、歴史上の事実だ。


以下はWikipediaのコピペになるが、

「アドルフ・ヒトラーは宣伝手法について「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」「宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そのスローガンを繰り返し続けることが必要である。」と、感情に訴えることの重要性をあげている

とある。


また、アメリカの宣伝分析研究所というところが、プロパガンダ技術を分析し、次の七つの手法をあげている。

1.ネーム・コーリング - レッテル貼り。攻撃対象となる対象をネガティブなイメージと結びつ     ける(恐怖に訴える論証)。

2.カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、悪い事柄を隠蔽する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。

3.バンドワゴン - その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外される事を恐れる性質があり、自らの主張が世の中の権勢であると錯覚させる事で引きつける事が出来る。(衆人に訴える論証)

4.証言利用 - 「信憑性がある」とされる人に語らせる事で、自らの主張に説得性を高めようとする(権威に訴える論証)。

5.平凡化 - その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。

6.転移 - 何かの威信や非難を別のものに持ち込む。たとえば愛国心を表彰する感情的な転移として国旗を掲げる。

7.華麗な言葉による普遍化 - 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。



・・・・・以上の七つは、あえてひとつひとつを学会と絡めて解説しなくても、学会に関わった経験のある方ならすぐにピンとくるものばかりだと思うのだが・・・。

宗門の日顕氏に対して忘恩の輩呼ばわりし、ここでは書くのもはばかられるような罵声を浴びせ、「今に大罰をうける」「ろくな死に方しない」などと侮辱の限りをつくし、幹部たちは「宗門との裁判にはすべて勝ちました!」などと得意げに言っているが、本当は学会原告の裁判のうち、勝訴は15%くらいしかなく、実に85%は学会側の敗訴となっていることは会員には一切知らされていない。

これはほんの一例にすぎず、学会員たちに対して、および世間に対して都合の悪いことはしっかりと揉み消したり隠したりするようなシステムが出来上がっていることを、会員たちは何も知らないし、知りたいとも思わないように、ガッチリと精神の奥深くまでマインドコントロールされている。

自分たちこそが「日蓮直結」だと信じ、「世界平和に貢献」していると思い込み、「唯一幸せになれる仏法」を信仰していると思い込む。

折伏、選挙などの気合いの入った会合の際には、シュプレヒコールをあげて会場のボルテージを上げまくり、高揚感による一種の集団催眠状態を作り出す。

「わたしもがんばる(涙目)!」「宿命転換するわ(涙目)!」「絶対に勝つ!」「きっとわたしにもできる!」



・・・・イヤ、宗教団体で「シュプレヒコール」って、そりゃないでしょ・・・・(苦笑)



一種の催眠状態のような特殊な状態を作り出すことにより、団結力を高めて、会場の意識を目的に向けて一ヵ所に集中させる。

そして、「池田先生のために!」「池田先生に御恩返しするために!」「池田先生に勝利の報告を!」「池田先生の敵をうつ!」・・・・・などなど、池田氏崇拝も織り交ぜながら、さらに「学会活動」に邁進していく・・・・・

結局のところ、学会員にとって、宗教的な理論や道理が大事なのではなく、「感情にどれだけ訴えかけられるか」「相手の感情をどう動かせるか」という、まさにヒトラーが堂々と使っていた手段と同じものが重要視されていたのである。


確か折伏も選挙も、「あなたの一念が相手の心を動かす」などとよく言われていたっけ・・・。


学会活動の原動力は、結局のところ、「感情論」でしかなかった。


幹部は会員たちをいかにして「やる気」にさせるか、末端会員たちは、いかにして「やる気」を奮い起こすか。

日蓮の教えがどうとか、絶対的幸福とか、そんなものはすべてただのお飾りだ。

「仏罰・宿業」という恐怖心、そしてあるはずのない「絶対的幸福(・・・って何だよ!?)」という言葉を巧みに用いて、会員の感情のコントロールを上手に行っていたのが、学会上層部の正体じゃなかろうか。

・・・なんとよくできたシステムだろうか。


覚醒している人、もしくは覚醒途中の人ならわかると思うのだが、創価学会が現在のような巨大宗教団体にまで発展できたのは、歴代会長および、学会中枢部の人間たちが、プロパガンダの手法とマインドコントロールの手法を見事に絡めて、その手腕を余すところなく発揮したからではないだろうか。

そうして、それがバッチリと創価学会が誕生した時代にマッチしたからではないだろうか。



本当に私は不勉強で、知識が足りなくて、今さらこのようなことに気が付き、ようやく事実を知ったのは、本当に本当に恥ずかしい限りだ・・・。



もっとも、ガッツリとマインドコントロールされている脳では、創価学会とは結びつきもしないような知識なのだが・・・。

けれども、学会と無関係の知識ある方々は、外側からじっくりと創価の実態をながめ、とっくの昔からこんなことに気が付いていたのだろう。

そして学会の行く末を見守り、警鐘を鳴らし、創価のマインドコントロール下ではタブーとされていたメディアのネガティブ記事(実はそちらの方が真実だったりするのだが・・・)などで、実は世論に訴えかけていたのだろう。



「真実は自分の目でしっかりと見て、確かめないといけないんだよ。何が真実で、何が嘘なのか、しっかり見極めないといけないんだよ!」


・・・・・などと、さもわかったような顔をして、エラそうに、上から目線で言っていた私自身が、じつは何も知らない大ばか者だった・・・・。




それから何よりも衝撃だったのが、「活動家」という言葉の意味を、あらためて思い知ったことだ。

私は生まれてからずっと創価学会の環境の中で生きてきたため、「活動家」といえば、創価の活動家のイメージが強かった。

「創価学会の活動家」という言葉に対して、何の違和感も感じたことがなかった。

それは子供の頃からずっと聞いてきた言葉だったし、自らも一時期は創価の活動家として動いていた時期があったからだ。


けれども、『活動家』という「言葉」自体、そもそも政治活動やある種の社会的な活動を行っている人に対して使うことが多い言葉であり、仮にも「信仰者」たちが自らを称する言葉ではないのではないだろうか・・・・????


仮にも宗教ならば、宗教団体ならば、普通は「信者」「信徒」などという言葉を使うのが普通ではないのか??

さきほどから自分で文章を書いてきて、ますます「創価学会の活動家」のしていることは、「政治活動をする団体」や「秘密結社?」の活動家(イメージだが)のようなニュアンスが感じ取れるようなことばかりだということに気づかされたのだが・・・。。。

愛読しているブログでそのことを指摘されていた方の非常に鋭い視点に、ただただ感服するばかりである。

わたしもその方の言わんとしていることが理解できたとき、まるで雷に打たれたような激しい衝撃を受けた。

全身を戦慄が走り抜け、体中の毛が逆立つような感覚を覚えた。

2014年2月10日 (月)

それは信心利用です

創価学会の永遠の5指針なるものが、数年前に確か発表されたような気がするが、その中の「一家和楽の信心」・・・・これはハッキリ言って、この世に存在してはいけないものだと思う。

つまり、活動家の創価学会員の家庭では、家族全員が学会に入会し、家族そろって学会活動をしよう!ということだ。

これは、「家庭崩壊・親子関係の崩壊」を招くだけだ。

子供に対しては、信心を継承させるだかなんだか知らないが、子供の人権を無視し、思想を縛り付けることにより自由を奪う行為であるのは、間違いない。


子供は親から愛情を注いでもらい、安心して自分の未来を切り開いていけるように、自信と希望を持って生きていく権利を、誰もが平等に生まれながらにして持っているはずだ。

この「人間として自由に生きる権利」という領域には、たとえ親といえども、過剰に介入してはいけないはずだ。


それなのに、創価の歪んだ思想・行動を刷り込まれ、将来は学会の中で生きていきなさいと親が勝手に決める・・・・これは人権侵害だ!

ましてや、「自分たちの信心が一番正しくて、他はすべて間違っている。他のものは信じちゃいけない!見てはいけない!私たちの師匠を尊敬しなさい!」なんて、カルトという以外に、この状態を何と説明すればいいのか・・・・。


こんな中で育てられて、まともな人間が育つわけがない。


我が家のように、両親も親戚もそろってバリ活一族なら、ちょっとでも違う考えを持ち込もうとすると、「反逆者」「頭が狂った」という扱いを受けるのだ。

私が脱会してやったら、自分の父親から「ついに頭がおかしくなった」「頭が割れた」「大変なことが起きる(とんでもない仏罰を受けるという脅し)」など、愛情とは程遠い、罵倒の言葉をあびせられた。

冷静にこのような親の姿を見て、あきれるやら、恥ずかしいやら、腹立たしいやらで、どうにも心が落ち着かない。


もっとも、父親の場合、完全に「父オリジナル学会」のようなものを作り上げてしまっているようだが・・・。


昔組織でかじった教学を得意げに振りかざし、自分では自分の信仰を貫いているとカッコつけていたが(というか、すでにこの時点で創価学会員とは名乗れないと思うが)、自分が仏法の軌道から外れていることに気が付かないでいる哀れな人・・・・それが父親の現在の姿だ。




そういえば、私が脱会したことを両親に告げにいったとき、「もうこれ以上やりたくない」と私がハッキリ言うと、両親は「もう大人なんだから強制なんかしないよ」と平然と言ってのけた。

両親はあたかも、自分たちは今まで一度も強制なんかしたことありませんよ、という体を装っていた。

実際、彼らはそう思っているのだろう。


だが、どこをどうしたら、両親の頭の中がそうなるのか、どこで思考回路が自分達の都合のいいように組み替えられてしまうのか、本当に理解できない!

人間の頭の中は、自分達に都合のいいことしか残らないように、記憶が整理されてしまうものなのだろうか。

幼少のころより、ずっとずっと36年間も創価と信心に縛り続けてきたのは、お前らだろうが!

ハッキリ言って、自分たちの思想を強引に強制することは、そんなものは親のエゴだ!傲慢だ!

その責任を追及されると、「俺たちじゃなくて、お前が自分で望んだからそうしてきたんだろう」と、罪をなすりつける。

どうしようもなく、救いようのない親だ。

わたしは、父親のことは間違いなく捨てるだろう。


私たち家族を信仰を利用して絶対服従させ、絶対的権力者として君臨し続け、まともな親として与えるべき愛情を子供に与えず、長年にわたって浮気をし、妻と子供たちを欺き続け、傷つけ、それでも何とも思っていないあの汚らわしい人間を、もはや自分の父親だとは思えない。

父親のどのような言い訳も、弁解も、全く無意味だ。

おそらく、私がわが子に対して感じる「愛おしい」という感情と同じものを、あの人間は私に対して、一度も感じたことがないだろうと思う。

おそらく、私がこの世に誕生してから一度も・・・・。

母に関しては、私に対する愛情はもちろんあると思う。

そして、いつの日か、母には私の生きてきた苦しみの時間のすべてを理解してほしいと思っている。

母なら、きっと理解してくれる・・・と信じたい。

できれば、そこだけは信じたい。

すくなくとも、母が信心を脅しの道具として使ったことは一度もなかったように思う。

活動に没頭するあまり、私たち子供のことに関しては、ほとんど無関心な母親だったが・・・。


過ぎ去ってしまった時間はもう取り戻すことはできないが、私がどんな思いで生きてきたのか、そのことは絶対に母には理解してもらいたい。

「なかったこと」には絶対にできない。

何もしないで、私の中だけで許すことも絶対にできない。

私は、実際に傷ついて36年間も生きてこなければならなかったのだから。

母がどのような形でその責任を負うことになろうとも、「私の母親」としての務めはキッチリ果たしてもらいたい。

2014年2月 5日 (水)

毒になる親 2

『精神的虐待(心理的虐待)』・・・・著しい心理的な傷を与える行動を行うこと。

◎言葉によるいじめ・虐待

怒鳴り散らすこと、叫ぶこと、悪口を言うこと、からかうこと、馬鹿にする、皮肉を言う、他の家族が言葉による虐待を受けているのを見る

◎社会的いじめ・虐待

子どもを他者から引き離しておくこと、友達を遊びに来させなかったり、友達の家に遊びに行かせなかったりすること
家庭環境や親の態度が恥ずかしいので友達を家に呼べないという間接的な場合も

◎育児放棄、無視

子どもの世話をしないこと
愛情を表現したり、適切な導きを与えないこと
(食べ物、衣服、住まい、医療を受けさせること、適切なスキンシップにより子どもを落ち着かせたり可愛がること、子どもを元気づけたり、子どもと過ごす時間を取ったり、注意を向けたり、しつけたりといったことを与えないこと)

◎知的いじめ・虐待

馬鹿だとか、お前なんかに絶対にできるはずがないなどと言うこと
子どもが自分で考える力を応援したり、育てるサポートをしないこと

◎精神的いじめ・虐待

親が言うことが絶対に正しいというような頑なな態度で子どもに接すること
子どもは自分の欲求や望みを持つことが許されないのだと思うようになるし、 親が何を望んでいるかを最優先で考えるようになる。

◎宗教や社会的権威に対する依存

宗教や先生等の権威者を使って子どもを脅したりコントロールすることで、子どもに選択肢がないと思わせること
これは「神」や権威者に対する疑いや恐怖を植えつけることになる。

◎家庭内の環境

家庭内に全く融通の利かない規則がある(暗黙の場合が多い)、少ししか、もしくは全くコミュニケーションがない、高い緊張感、口論、無言による非難、「感じるな、話すな、信じるな」というメッセージが家庭に浸透している


このように育てられた子どもたちは、家庭や学校でどのようにすればこれ以上傷つかないでいられるのか子どもながらに学んでいきます。
そしてその技術は大人になるにつれてどんどん進化していくのです。


また、自分が子育てをすることになると不安を感じる人も多いものです。
しかし、自分がどうしてこのようになったのかの理由を知り、健全な子育ての方法や愛情表現を学び、周りのサポートを得られるようになれば、このような状況を改善することは可能です。



『大人になって表れる病気、身体的不調など』

小さい頃に、自分のせいではないのに不当に扱われた怒りと悲しみは本人は意識していなくても、身体の中に蓄積しています。
そして抑え込まれたそれらは、身体的症状となって表れます。


◎うつ病

軽い症状から、身体が動かせなくなる重い症状まで様々です。

◎肥満、拒食

辛いことがあると食べ物に逃げる、もしくは食べることを拒否する

◎慢性的な頭痛、肩こり、背中の緊張、腰痛、腸の不調など


最初は軽い症状だったこれらは対処されずに放置されると、なかなか治しがたい難病や、さらに重い病気という形で表れたりすることも多いようです。




『精神的虐待を行うのはどんな人か?』

心が不健康な方々です。例えば…


●何事においても自分の都合を最優先するが、それもすべて子供の為だと言う。

●親は絶対で、子供は親の言う通りにするべきだと思っている

●自分と考えが違うことは、自分に対する個人的な攻撃と受け止めてしまう。

●子供の「非力さ」と親に対する「依存度」を大きくさせることで、自分の立場を守ろうとする。
ものごとを必要以上に難しく教えておきながら、「お前には無理だ」と言ったり…。

●子供がしたいことをすると自分が置いてけぼりにされたような気がして、子供を「自分勝手だ。」と責めることでコントロールする。

●自分と子供との間の境界線がない。どこまでが自分でどこからが子供なのか分からなくなっている。子供の人生は自分の人生の延長にすぎないと思っている


こんな感じです。

つまり、子供は絶対的に自分の言うことを聞くべきだ、私の一部なんだからという感じです。
子供が違う意見を言うとひどく傷つき、心のバランスを欠きます。


実は、とっても傷つきやすい方々です。


だからといって、子供を自分の気持ちを慰めるための道具として使っていいとは思いませんが、 実は子供の機嫌に自分の気持ちが左右されやすい、人からの評価を非常に気にするタイプです。

本当は子供のことをとても愛しているけれどその表現方法を知らない、もしくは愛情とはどういうものなのか混乱した思考を信じている方々ではないかと思います。




以上、サイト「ほっとひといき こころとからだのほけんしつ  ~どんな親や家族が精神的虐待を行うのか?」より拝借いたしました。





・・・・・これは、まさに私自身と父親の姿そのままではないか!!

正直なところ、適切な愛情をそそいでくれなかった母親も、父親と同罪だと思う。

私が父にひどく罵られているときに、近くにいるのにもかかわらず、全く助けてくれなかったばかりか、父に同調していた。

「お父さんがそう言ってるんだから、そうなのよ。お母さんもそう思う。」といった雰囲気で、いつも私の心をないがしろにしてきた。

私がどれだけ傷つき、怒り、苦しい思いを抱えているかなど、全く考えもせずに・・・。

百歩譲って、父のいるその場で私をフォローしてくれなかったとしても、あとから私を慰めてくれたり励ましてくれる言葉でもかけてくれていたのなら、私も少しは救われたのだが・・・。

それどころか、後になっても、やはり母はいつも父にすり寄った意見を一方的に言うだけ、もしくは「題目あげなさい」しか言わなかった。


結局、両親そろって私を精神的に追い込んできたことは間違いない。


どちらも許されざる罪を犯してきたのだ。


一人の人間、ましてや自分達の子供の未来をその手で奪ってきたのだ。


私は、精神的虐待は、殺人罪と同等の罪の重さだと思っている。

殺人は言葉のとおり、直接他人の命を奪う許されざる行為だが、精神的虐待を受けて育った子供は、「生きる気力」「人間の尊厳」「人権」を奪われる。


つまり、精神的に殺されるのだ!!


しかも、親はよかれと思ってやっている・・・と思い込んでいるから、全く罪の意識がない。己の正当性のみを信じ、主張し続けるだろう。

殺人の罪を犯した本人なら、「殺人、人の命を直接奪う」ということの意味と罪悪感は、普通の神経の持ち主ならば感じるものだろう。

だが、精神的虐待を行ってきた者たちには、「他人の人生を奪った」という感覚も意識も、一生わからないままかもしれない。


所詮、人間は他人の心の痛みなど、「他人ごと」に過ぎないのだから・・・。


精神的虐待は、傷を負わされ続けてきた本人にしかわからないのだから、非常にやっかいだ・・・・。





私は、心が傷つき、疲れ果て、失ってしまった36年間をもう取り戻すことはできない。

ひたすら毎日が重苦しくて不安で、生きる意味もないままに過ぎてきた時間を、巻き戻すことはできない。

もしかしたら、STAP細胞を発見した小保方晴子さんのように、研究者としてキラキラ輝く人生が、私にもあったかもしれないのに・・・・

私には、そんな夢がかつてはあったのに・・・・

彼女をテレビで見ると、そんな思いに苦しくなって、胸が締め付けられて、涙が止まらなくなった。

ずっと泣き続けてしまった。


今の自分の姿が、あまりにもみじめで、悲しすぎて・・・。



カウンセリングに通いながら、少しづつ見えてきた自分と両親との関係。

温かな心の絆を育むことのできなかった、幼少時代から今までの人間関係のすべて。

私がこんなに孤独で悲しい人生を送らなければならなかったのは、一つも「私自身」のせいじゃなかった。

全て、「親の責任」だ。

責任転嫁をしているんじゃない。これは事実なのだ。

右も左も分からない幼子には、何の罪もなかった。

本来なら、分別のある大人がとるべき責任だった。

その代償を、私が背負わなければならなかったのだ。

徹底して「私」という人間の自尊心を破壊し続けた父親に対する激しい怒りは、おそらく一生消えることはないのではないか、と思う今日このごろ。

どういった形でこの親子の関係に結論を出すのか、それはまだまだ先の話になりそうだ。

なによりも、私自身の心の回復が最優先だ。

日々、心の痛みと向き合いながら、毎日を過ごしている。

2014年1月29日 (水)

心の穴

これまで、親や周りの大人たちから与えられたものとはいえ、一応『創価学会』というものを自分の中心に置いて生きてきた。

物事の見方、考え方、善悪について、などのさまざまな価値観を創価学会の中で作り上げてきた。

何の疑いも持たず、「そうあるべきだから、そうなのだ。」「そう決められているから、そうなのだ。」と、思い込まされてきた。

実際には疑問や矛盾など、モヤモヤと常に心の奥底に抱えていたが、「そう思うのはいけないこと」と、自分の心のさらに奥底に押し込めて、なんとか表面的には取り繕ってきた。

疑いを持つことや、疑問を組織の誰かにぶつけることは、不信だからダメ、同志のことを悪く言うのは、罰があたる・・・など、真剣に思い込まされてきた。


この呪縛から解き放たれるには、自分で創価学会の間違いに気が付くしかない。


完全に創価脳になっている人に、いくら正論をふっかけても、完全な水掛け論で終わってしまうからだ。

かつての自分がそうだったように・・・・


恐るべし・・・創価のマインドコントロール・・・。




私は幸い、昨年の秋に覚醒することができた。

自らの心の苦しみと真剣に向き合い始めたら、その延長線上にどうしても避けて通ることのできない巨大な壁として、創価学会が立ちはだかっていることに、自らが気が付いたのだ。


「私は創価学会が大嫌いだ」


この事実を受け入れることに、始めはものすごい抵抗感があった。

何しろ、自分のこれまでの人生、そして両親、祖父母、親戚たち、私をとりまく環境すべてを否定するということになるのだから・・・!

けれども、自分でハッキリとその事実を認識し、認め、受け入れた時、私の中で何かが大きく動き始めた。

子供の頃から長い長い間、心の一番奥深い場所に押し込め続けてきた本来の自分が、初めて表に出てきた瞬間だった。


まさに、本当の自分が生まれた瞬間だった。


そうして、生まれたときからずっとつけてきた目隠しを、自らの力ではぎ取った。

すると、衝撃を受けることばかりだった。

普通の人が考える思考、物事の見方、そういった目線で初めて物事をとらえることができるようになったとき、いかに自分の価値観が歪んだものだったか、常識はずれだったか、生きる環境が異常なものだったか、ということに愕然とした。

それと同時に、創価学会という団体の、真実が知りたくなった。

今やネットを使えば、いくらでも情報を得ることができる時代なのに、これまではずっと創価のネガティブな部分を知ろうとすることは、タブーだった。

だからこそ、信頼できると思われる資料、情報に基づいた記事を、片っ端から読み漁った。


ひたすら真実が知りたかった。


どこかで創価学会は正しいと信じたかったのかもしれない。

だが、どこをどう調べても、創価学会に対する信頼を失っていくことしか出てこなかった・・・。

というか、今まで摘発されなかったのが恐ろしいくらいのことが、裏側では(学会の上層部では)起こっていたのだ。

そうして、私の創価学会との決別は、確実なものとなっていった。




創価学会から与えられた価値観が、全くの間違いだらけであったことに気がつき、決別を決めてから、しばらくの間は心にぽっかりと穴が開いたような感じになっていた。

何しろ、自分の生きるための道しるべがなくなったのだから無理もない。

だが、心に穴のあいた状態がかなり長く続くのではないかと思っていたが、覚醒してから3ヶ月以上が経過した今、もうほとんど埋まっていることに気が付いた・・・。

おそらく、私の場合は、創価学会そのものからの影響は、そんなに大きくなかったのかもしれない。

それよりも、両親から受けた心の傷のほうが、はるかに大きかった。

両親を通しての創価学会、という経路からの影響のほうが深刻で、組織そのものから受けた影響は、思ったほど大きくなかったのかもしれない。

・・・・とはいえ、一概にはそう言い難い部分もかなりあるのは事実だが。。。

創価学会から受けた迷惑千万な指導と、常識はずれの活動から受けたストレスは、計り知れないものがある。



いずれにせよ、私は本来自分の頭で考え、本を読み、いろんな知識を得ることに喜びを感じる人間だ。

新しい発見、衝撃と感動、そういったものを自ら進んで吸収するのが好きだ。

今まで自分を押さえつけてきた分、知識欲が爆発したような感じだ。

科学、社会学、哲学、宗教学、あらゆることが知りたくてたまらない。

この世界の真実が知りたい、という欲求であふれている。

これらが、創価学会を取り除いた私の心の穴に、すっぽりと収まった感じがする。

そして、これが私としても、一番しっくりと自分になじむ感じがする。

2014年1月28日 (火)

毒になる親 1

先日、脱会届を提出した際に、組織の人たちに宛てた手紙を書いた。

コピー用紙7枚におよぶ長文の手紙だ。

地元の組織に子供の頃から住んでいるので、少なからずつながりを持ってくださった方々に、自分の気持ちをきちんと説明しておきたかったのだ。

仏罰への恐怖に縛られて生きてきたこと、日蓮仏法の根幹(自分達の宗教が一番正しくて、それ以外は間違いというところから発する選民思想)自体が私には合わず、そのような思想を求めてもいないこと、生まれたときから創価学会の歪んだ思想を刷り込まれ、生きることは、学会二世三世にとってはこの上なく苦痛であることなどを書いた。

・・・活動家の幹部の方々が読んでも、全く理解できないであろうことは重々承知しながら、それでもこの思いを伝えずにはいられなかった。

日本中(世界中かも)で学会二世三世として苦しんでいる人たちの思いを代弁するつもりで、二週間近くかけて書いた。

支部婦人部長宅のポストに、脱会届のコピーと一緒に入れてきた。

組織の人たちに何と言われようが、どう思われようが、私の人生には関係ない。

国法を犯したわけでもなければ、反社会的な行動をしたわけでもない。

ただ、『私が私らしく生きるため』の選択をしたまでだ。




そして、その夜に、実家にも同じ手紙を持っていき、両親に突然、「今日、脱会届を出してきたから。」と伝えた。

ちょうど夕飯時で、父が晩酌をしていた。

私のその衝撃の一言に、父は「・・・・そうか。まぁ、お前の好きなようにしたらいい。」と言い、母も始めは驚いていたが、父と同じようなことを言った。

始めは手紙を置いてすぐに帰るつもりだったが、少し話し込んでしまった。

ガチガチに創価脳の両親のことだから、「勘当だ!もう家に来るな!」くらい言うんだろうなーと思っていたから、始めは少し拍子抜けしてしまった。

だが、口では「もう大人なんだから、自分の好きなようにすればいい」と言いながら、心では全くそう思っていないな、ということが、私には感じ取れた。


まぁ、事後報告で「脱会した」といきなり言われれば、両親が動揺しまくりなのも無理はないが・・・。


しかし何よりも腹立たしいのが、この後におよんで、また父が呪いの『罰論』を持ち出してきたことだ。

「さぁ、お前もこれから大変な人生を歩むことになるんだ。今にそうなっていくに決まっているんだ。」と、つまりは「お前は大罪を犯したんだ。これからものすごい罰を受けるんだぞ!」という脅し文句だ・・・。

普通の親ならこういうとき、「お前は自分の選択をしたのなら、その生き方で幸せになりなさい。」とか「どんな選択をしてもがんばりなさい。」とかいう言葉をかけるものではないだろうか?

そのような、娘の幸せを祈るようなことを口にすることは一切なく、それどころか、「罰をうけるぞ!」と脅してきたのだ!

他人に対して、このような「仏罰を受けるよ!」「宿業が出るよ!」「ろくな死に方しないよ!」などという呪いの言葉を平気で言える神経がどうかしているのだ、ということが言いたいのだ、私は。

ましてや、他人ではなく愛すべき自分の娘に対してなのだから、この父親は本当に頭がおかしいのではないのか・・・。



けれども、このようなことは、子供のころからたびたびあった。



父親から、私の人権を踏みにじられ、叩き潰され、脅しの罰論で恐怖をあおられてきた。

何もわからない小さな子供のころから、日常生活の中でたびたび「お前は非力で、無力で、何もできない人間だ。お前の判断は間違っている。俺の判断のほうがいつでも正しい。俺の言うことに逆らうな。女は学問なんか必要ない。生意気になるだけだ。無学でいろ。男に尽くすことを心がけていけばいいんだ。」という、激しく人権を蹂躙したメッセージを父親から受け取ってきた。


これは、どう考えても、精神的虐待である!

絶対に許すべからざる虐待である!


私が「私」という一人の人間としてこの世に存在すること、価値のある人間であるということ、そういったことは、ただの一度も両親そろって認めてくれたことはなかった。

いつでも親の所有物であるかのように扱われ、私たち子供の意見は全く聞き入れず、尊重せず、一方的に親の言い分だけを押し付けられてきた。



私は、自分がこの世に存在する理由がわからなかった。



私は彼らにとって、一体どんな存在なのか、彼らは私をどうしたいと思っていたのか、全くわからなかった。

私は、子供の頃から生きる意味を見いだせず、不安で、混乱して、苦しくて、怖くて、そんな思いを抱えながら成長した。

いつも心の居場所がなく、何を信じたらいいのかわからず、ぐらぐらと不安定な状態で日々を送らねばならなかった。


だが、両親はそんな私の内面に、目を向けてくれたことは一度もなかった。


それどころか、「お前の宿業だ」「お前の心が弱いからいけないんだ」「信心で弱い命を切り捨てるんだ」と、ひたすら私を責めて追い込んだ。


人生の大事な場面で、両親が私の心に寄り添ってくれたことは、ただの一度もなかった。


「この子はどう思っているのか」「どんなふうに苦しいのか」と、私の心の声に耳を澄ませて、思いを馳せることなど、ただの一度もなかった・・・。




弱い命って、なんだよ??バカにするな!勝手なこと言うな!

死にたい気持ちがどんなものか、お前らにわかるものか!

ふざけるな!!お前らの責任だ!!!!


先週のカウンセリングで、初めてわたしの中に押し込めていた、「怒り」の感情が爆発した。



父親から与えられてきたもの、それは『屈辱感』だった。



愛情でもなければ、安心感でもなく、父と対面したときには、ひたすら屈辱感を味わわされてきたのだ!

鼻持ちならない傲慢さで私の人権を踏みにじってきたこの父親の前に、ひざまずかされ、屈服させられ、やり場のない怒り、猛烈な怒りを内側に秘めて、ひたすらこの屈辱感に耐えるしかなかったのだ。

このような気持ちを、子供のころから執拗に、何度も何度も味わわされてきたのだ。



『屈辱感』を子供に与える親。

これが毒親でなくして、なんだというのか。

2014年1月27日 (月)

脱会!新しい人生へ

2014年1月22日、ついに脱会届を学会本部に提出した!

御本尊、お守り御本尊も同封し、配達証明付きで原田会長宛てに送った。

郵便局の窓口で、配達証明の宛名をひかえられたとき、非常に恥ずかしかった・・・。

『創価学会』と書いてある封筒を提出するのが、非常に恥ずかしかった。

けれども、この一回きりでこのような恥ずかしさとは永久におさらばだ。


ついにやった!私、よくやった!エライ!


脱会する意思は去年からすでに固まってはいたが、やはり実行に移すのには勇気がいった。

タイミングが難しいと思っていた。

去年覚醒し始めたころは、完全に両親に心を縛られていたため、「両親が悲しむだろう」という思いがあった。

しかし、カウンセリングに通い、幼少時代からの出来事が少しづつ明らかになってくるにつれ、私の中に押し込めていた本当の気持ちがどんどん溢れ出してきた。

36年分の思い・・・苦しみ、悲しみ、寂しさ、そして怒り・・・。

自分でも、こんなにたくさんの感情を抑え込んできたのかと驚くぐらいのいろんな感情が解放された。


私には反抗期がなかった。


反抗期まっさかりの兄を見て、それに頭を悩ませる両親の姿を見て、「あぁ、私が絶対に両親を守らなきゃ。この家を守らなきゃ・・・!」と、15、6歳の少女が決心してしまったのだ。

どうしたら親を喜ばせることができるか。

それが私の人生の目標になってしまった。

自分がやりたい勉強をするのも、やりたい職業につくのも、「自分のため」ではなくて、「両親を楽にさせてあげるため」だった。

純粋な親孝行の心とは、少し違っていた。

女子部時代に学会活動をがんばっていたのも、「私が頑張れば、母が周りから褒められるから」だった。

「あなたの娘さん、立派ね。偉いわね。これも母であるあなたががんばってきたからよ。」と、婦人部の人たちから言われ、嬉しそうな顔をしている母の姿が見たかったからだった。

私の中で、『創価学会』イコール『両親』になっていた。

だから、創価学会をやめる、イコール両親との決別ということになる。

はじめはそれが怖かった。

思春期に両親から精神的に独立するどころか、「わたしが守らなきゃ!」と、より結びつきを強めてしまったのだから、これは一筋縄ではいかない。


しかし、カウンセリングに通いながら、すこしづつ本来の自分を取り戻しはじめたら、「私は私の人生を生きてもいいんだ」という思いのほうが強くなってきた。

さらに、創価学会の真実の姿をだんだん知るようになるにつけ、ますます学会と決別したいという思いが強まった。

そこまでくると、もはや脱会の意思は強固なものとなっていた。

あとは一歩を踏み出すだけ・・・。

最終的に躊躇していた理由は、「両親から何を言われるかわからないのが怖い」のではなくて、「せっかく心が安定しはじめたところなのに、また不安定になっていしまわないかが不安」なのだった。

夫はそんな私に助け舟を出してくれた。

「でも、自分の意思は決まっているんでしょ?遅かれ早かれその時が来るのなら、今でもいいんじゃない?早くスッキリしたほうが、かえっていいかもしれないよ。」と言ってくれた。

この一言で私の意思は固まり、勇気の脱会に至ったのだった。


私にとって、脱会は両親への最大の反抗なのかもしれない。

さんざん私の人権を踏みにじってきた両親への、最大級の反抗だ。

今は、「私、よくやった!ついにやったね!」と、自分を褒めてあげたい気分だ。

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