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2013年12月18日 (水)

人間が嫌いです

私は人間関係を築くのがとても苦手だ。

・・・というか、できれば誰とも関わりたくないし、必要以上に私の心の領域に踏み込まないでほしいと常に願っている。

昔からずっとそうだ。こんな私だ。

こんな状態のまま、気が付いたら35才になっていた。


小学生のころから、二年に一回のクラス替えが憂鬱だった。

学年が変わるのが憂鬱だった。

担任が変わるのが憂鬱だった。

クラスで席替えがあるのも憂鬱だった。

学校生活そのものが憂鬱だった。

中学校も高校も、ずっと憂鬱だった。


別にいじめられていたわけでもないし、特別これといって理由はなかったが、学校に行くということ自体がストレスだったのだと思う。

私の中では、小学生のころからずっと「学校」に関する記憶は、なぜかどんよりとした曇り空のように、重苦しい空気を感じさせるものしかない。

そもそも、私には「親友」と呼べるような友達がいたことがない・・・。

進級や進学で環境が変わるたびに、一応友達はできたが、自分が心から信頼できる友達がいたことはなかった。

とにかく子供のころから、激しい人見知りとひっこみじあんで、自分から人の輪に入っていけるタイプではなかった。


嫌なものは嫌なのだ。新しい環境が激しくストレスなのだ。人間関係が、激しくストレスなのだ。


子供のころからずっとこの調子だったが、成長するにつれて、ますますこの傾向は強くなった。

大人になるにつれて、社会と自分との繋がりを持たなければ生きられなくなるということに、ますます恐怖感をつのらせていった。

もともとこのような対人関係に対する恐怖心があるのだが、そこにさらに追い打ちをかけ、私を追い詰める原因があることを、心の奥底ではずっと気が付いていた。



「私は創価学会員です」


この事実が、心の奥底から私を監視していた。


「創価学会の看板を背負って生きなければいけないんだ!」と、言い方はその都度変わったが、子供のころからその重荷を両親や周りの大人たちから背負わされてきた。

それでもまだ、高校生の頃までは自分が学会員であることを友人たちに明かさなくても、特別困ることもなかった。

自分が学会員であるということが、友人たちとの関係において、特に影響を与えることはなかったからだ。



しかし、女子部の活動をはじめると、友人に対して仏法対話、選挙の支援のお願い、新聞啓蒙など、とにかく「友人にあたって」いかなければならなくなる。

そして、そのあたった分だけ、結果はどうあれ、とにかく語った分だけ自分に「福運」がつき、「功徳」がもらえる、ということになる。


私はそもそも、人間関係が苦手で苦しくて、まともに連絡を取ることすらできないのだ。それなのに、そんな私に仏法対話や選挙の支援をしろというのか??


とてもまともな神経ではできるはずがない。

自分の心の苦しさを麻痺させなければ、とうていできるものではない。

だから、まともでなくなるしかない。

世間一般の常識の枠から外れるしかない。

それしか、創価学会の中で生きる方法はない。

私の生きられる唯一の世界、「創価学会という世界」で生きるしか、このときの私には選択肢がなかったから・・・・。


そうして、自分で自分をどんどん追い詰めた。追い込んだ。


強引に、題目という魔法でアドレナリンを分泌させ、全身から沸き起こるとてつもない嫌悪感を心の一番深い場所に押し込めて・・・・。


「なんでこんなことしなきゃいけないんだろう。本当はやりたくない!嫌だ!!」


という本心が顔を出そうとすると、無理やり心の奥底に叩き込んだ。棍棒でガンガン殴って押し込めた。

心は、ボロボロで血を流していても、皮膚が剥がれ落ちても、血をしたたらせながら、貴重な友人に電話をかけ、卒業以来会ってもいない同級生たちを突撃訪問した。

満身創痍の心を、「冥益」という衣に包んで、なんとか自分をなぐさめ、無理やりにいたわった。

「いつか必ず幸せになれるから。絶対に幸せになれるから。きっと苦しみの意味がわかるから・・・。」


けれども、創価学会の中で生きるということは、一生涯、このような苦しみを背負うということなのだ。

人間関係が苦手な私にとっては、生き地獄なのだ。

新しく知り合いが増えるということは、創価の餌食が増えるということなのだ。

自分にとっての友人は、組織から強引に圧力をかけられ、数を求められ、結果を求められ、それをうまくやり過ごすためのただの「駒」の一つにされてしまうのだ。

せっかく勇気を出して新しい人間関係を築こうと思っても、このプレッシャーのせいで、ますます人付き合いができなくなる。

新しく人の輪が広がる・・・イコール、選挙、新聞、折伏の餌食が増えるということだ。

純粋に親しくなりたくても、学会抜きで付き合いたくても、幼い日から刷り込まれ、叩き込まれた創価の思想はすさまじく、「・・・でも、きっといつかは選挙や新聞のお願い、折伏もしなきゃいけないんだろうな・・・」と思わせるのだ。

創価学会の思想に縛られている限り、絶対に抜け出すことができない無限ループなのだ。

根底にこの思いが常にあったせいで、人間関係を築くのが苦手な私は、ますます生きるのが苦しくなっていった。

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