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2013年12月17日 (火)

創価の呪縛

私はいわゆる創価学会三世だ。

両親、祖父母、付き合いの深い親戚もすべてが学会員だ。

私が生まれる前から、私の人生は決められていた。

創価学会のレールの上を歩かなければならなかった。


幼い頃の遊び場は、近所の空き地と、母の自転車の後ろに乗せられて連れて行かれた知らない人の家だった。

創価学会を肌で感じ、その独特の空気を吸い込んで大きくなった。

私も大きくなったら、両親のように、会合に参加している人のよさそうな大人たちのように、創価学会の歯車の一人として生きなければならない・・・・そう決まっていた。



「それ以外の選択肢もあるんだよ」と、教えてくれる大人は一人もいなかった。



将来自分がどのような職業に就いても、どこへ引っ越しても、どのような社会的立場に立っても、どんなに環境が変わっても、「私は創価学会員」という事実がつきまとうことに、いつの頃からか、かすかな嫌悪感を感じ始めていた。


そう、嫌悪感だ。


得体のしれないかすかな嫌悪感・・・。


物心がつく前から、私にとっては生まれ育った創価の環境が、居心地のよい自分の居場所だった。

勤行をすることも、会合に連れて行かれることも、信心の話を大人から聞かされることも、ごく自然なことだった。

朝起きて、顔を洗ってご飯を食べるのと同じように、自分にとっては当たり前の生活の一部だった。

誰かに遠慮をすることもなく、創価の一員として、ありのままの私でいてよかった。

けれども、小学生の低学年あたりからだっただろうか。気が付いたら、自分が創価学会員であるということに、何故だか周りの同級生たちにたいして、後ろめたさのようなものを感じ始めた。

堂々と「わたし、創価学会員なんだー!」とは、決して言えなかった。

両親からも、周りの大人たちからも、創価学会はすごい!池田先生は素晴らしい人だ!と聞かされて、自分でもそう信じて疑っていないのに、何故だか同級生たちには自分が学会員であることを知られたくなかった。

それは、学会以外の人たちからは、あまり創価学会がよく思われていないことを、子供ながらに感じていたからかもしれない。


すでにこの頃から、小さな矛盾を自分の中に抱え始めていたのかもしれない。


他の同級生たちがあたりまえのようにしている初詣や、神社仏閣へのお参りができないことに対して、自分では理由がどうにも説明ができなかった。

ただ、「創価学会だから」としか言えなかった。

他の同級生たちと同じ気持ちを分かち合えないことに、内心では寂しかったのかもしれない。

そして、物心ついたころからずっと仏罰の怖さについて聞かされて育ったせいか、意味もなく神社や日蓮正宗以外のお寺が怖かった。足を踏み入れただけで罰があたると真剣に思っていた。

まだ、自分なりの価値観が育たないうちに、両親や学会の大人たちから、「邪宗」という言葉とともに仏罰の恐怖を植え付けられてしまった。



何が正しくて、何が間違っているのか・・・。



自分で考え、自分で答えを出し、自分で時に応じた判断していく術を身に着けていくのが「成長」という過程なのではないだろうか、と私は思う。

しかし、学会の中で育ってきた私は、私自身でものごとを考え、判断することができるようになる前に、創価学会的な思考や思想を刷り込まれてしまっていた。

もう、この「創価学会という世界」でしか、生きることができないのだと思っていた。

どんなに嫌でも、なぜか最終的には「学会の庭」に戻って来ざるを得ないのだ・・・・必ず戻ってくることになるのだ・・・・と、思っていた。

どういうわけか、どんなに思考は遠くへ行きたがっても、創価から離れたいと思っても、めぐりめぐって、必ず創価学会に戻らされてしまうのだ。

まるで、呪いのように、その思いが私につきまとい続けた。

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